2018年の年明けに

「明けましておめでとうございます」と素直に年賀状を書けなくなってもう数年になる。
 今年の正月はなおさらのこと。1月1日に北朝鮮の金委員長が「核のボタンは私の執務室の上に常に置かれている」といえば、アメリカのトランプ氏は「私のはもっと大きくてパワフル。そして作動する」とツイッター上で反撃。
 我が国はと言えば何事にもトランプ氏に習って、「圧力をかける」ということに終始し、話し合うとか両国の間に入って調整するという気配もない。両国の摩擦がこうじれば、直接の被害はまず我が国の米軍基地が狙われる。そして未だ戦後になれなくて苦しんでいる沖縄が。
両者の狂気の挙げ句の果ては両国そして日本も勝ちも負けもない焦土が残るだけ。
 ローマカトリック教会のフランシスコ法王は協会が「世界平和の日」と定める1月1日に原爆投下された直後に長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真をカードにして配布するように命じた。
裏面には「戦争が生み出したもの」と表題があり、「なくなった弟を背負った少年が順番を待っており、噛み締めて血の滲んだ唇により悲しみが表現されている」と指摘、法王の署名も書かれているとのこと。
 この写真を撮ったのは原爆直後の写真を撮るように司令を受けた米軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏。爆心地に入るに連れ、その風景に衝撃を受け「アメリカは戦争が終わったと思っているが、長崎の地獄はこれからだ」と実感。
彼は人物を撮ることを禁じられていたので、焼け残った建造物など撮っていたのだが、たまたま臨時救護所があり、そこで地獄を見ることになる。
目や鼻、口などもない人間、焼けただれて肉の塊とか言えない人が、「あなたは敵でしょう。ならば私を殺して」。彼はいたたまれず立ち去るが、翌日はもうその人の姿はなかった。
瓦礫の中を歩いていくと、火葬場があり、子どもをおんぶした少年が歩いてくる。背中の子ども亡くなった幼い弟だ。
順番が来て弟をおろして、火の中にそっと置き、焼かれる様子を見ながら、直立不動で、血の滲むほど唇を噛み締め、弟に敬礼しているようだったと言う。
 帰国して彼は写真を2つに分け、その1つを提出。残りの30枚は屋根裏のバックの中に放り込んだままにした。
しかしその後も彼の脳裏には長崎の惨状が消えない。傷口にうごめく蛆、叫び声。鼻をつく異臭。それらは残りの人生を苦しめ続けた。
帰国してからアメリカ情報局で大統領付きのカメラマンになった。その頃背中の痛みと皮膚がんになったが、それは放射能のせいだと知っても当時は何の保証もない。
彼は屋根裏に封印した写真を取り出し、家族に見せ、原爆の恐ろしさをアメリカに広めようとしたのだが、退役軍人や地元住民に阻止され思うような活動はできなかった。
 彼は日本に来て同様の活動をしながら、ある人物を探し続けた。それは火葬場で見たあの少年。しかしその思いも果たせぬまま85歳で亡くなる。長崎に原爆が落とされた8月9日に・・・。しかしその遺志は息子に引き継がれている。
偶然にもその写真を皇后陛下が見られ終戦記念日に、「焼け跡に立つ少年」の写真が忘れられないとお話されたという。
この写真についてはかなり以前から見ていたのだが撮影者のオダネル氏については、ネットで初めて知った。
 戦争というものは、国と国、為政者と為政者の権力争い、損得の争いであって、ほんらい人と人の争いではけっしてない。それが気づかぬうちに一つの流れが出来て戦ってもいいような気分にされてしまう。
たまたまこの正月に手にした通販生活の特集、「戦争をなくすためにまず必要なことは戦争(戦場)の真実を知ることです」の中で、丹羽宇一郎さんが引用された故田中角栄氏が新人議員に薫陶を授けたという言葉はまさしく現代・「たった今」に生きている言葉である。
「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない」

2018年1月6日   M.H